あゆみ(1)

 あの子は生まれた時からそうだった。「生まれた時から」というのは、本当にわたしのお腹の中から出てきたその時から、という意味だ。
 産院のベッドが空いているというので、わたしは予定日の前、陣痛も来ない内に入院した。門をくぐる時、梅の香りが鼻を突いたことを覚えている。昨夜から生まれそうな赤ちゃんが難産で、助産婦はずっとかかりっきりだという。わたしのベッドもまだ用意されてなく、看護婦が慌ててシーツを取りに行った。わたしを送ってきた夫が、出社時間を気にしているので、生まれるのはまだ何日か先だから、もう行きなさいと追い出した。男は産院に長居するものじゃないわよ、と。
 ベッドの用意が出来ると、ごめんなさいね、と言いながら、看護婦も慌てて分娩室に戻っていった。4人部屋にはわたししかいなくなった。1つのベッドの枕元には雑誌などが置いてあり、きっと今分娩中の人が使っているのだろう。残りの2つはシーツもかかっていない。寝間着に着替えて、窓際のベッドに横になると、冬の柔らかい光が暖かかった。遠くから、難産の母親のいきむ声が聞こえていた。それはあるリズムで何度も何度も繰り返される。慣れてくると、1晩いきみ続けた母親の声が嗄れているのまで聞き取れた。わたしは初めての出産が不安になってきた。こんなことなら夫にもうしばらくついていてもらえばよかったと、後悔された。わたしは気をそらそうと、窓の外の、まだつぼみもつけない桜の枝に目をやりながら、それでも遠くから聞こえる声に耳を傾けずにはいられなかった。そして自分でも気がつかない内に、彼女に合わせて呼吸し始めていた。
 初めてのの陣痛は、それが何かわからなかった。これがそうかと気づいた時には、声も出ないほどの痛みに変わっていた。もう生まれる−−波が引いた隙に人を呼んだが、思ったほどの声が出なかったらしい。静まりかえった廊下に、もう一人の妊婦の声が、前より大きく響いた気がした。破水したらしく、股の間がぬるぬるした。もう1度誰かを呼ぼうとしたが、到底出来なかった。再び訪れた波はより大きく、そして執拗だった。
 結局みんなを呼び寄せたのは、生まれた赤ん坊のしっかりした泣き声だった。分娩室の外から突然聞こえた産声に、助産婦と看護婦は慌てて飛んできた。あら大変、とコメディのようなセリフを言って、2人は手早く処置をした。
 助産婦は赤ん坊をどこかへ連れて行き、わたしは看護婦に手伝ってもらって、汚れた衣服を取り替えた。新しく用意された隣のベッドに移り、横になると、産着に包まれたわたしの子どもがやってきた。もう泣きやんでいたが、1人前に眉根を寄せて、口をもぞもぞやっている。
「元気な女の子ですよ。お乳は出るかしら?」
 乳首を口元に持っていってやると、赤ん坊はすぐさま吸いついて、一心不乱にお乳を飲み始めた。誰も教えていないのに、どうしてわかるのだろうとわたしが驚いている内に、助産婦達は姿を消していた。
 わたしとあの子しかいない病室−−そう、あの子はたった一人で生まれてきた。夫も助産婦も看護婦も同室者もいないこの部屋に。わたしの陣痛など、まだ分娩室で苦しんでいる女に比べれば、なかったに等しいに違いない。
「あなたは風船に入った羊羹が剥けるように、ツルンと出てきたのよ」
 大きくなってから、冗談にそんなことを言ったものだから、あの子は出産というのはお母さんのお腹がツルンと剥けることだと思ったらしい。それで小学校で笑われ、その時ではないだろうが、やがて正しい知識を得ても、あの子はわたしの喩えたイメージがいつまでも残っていると、大人になってからも言っていた。わたしは出産全般についてだと思っていたが、あの子は自分の出生のイメージのことを言っていたのかもしれない。
 誰もいない部屋で、羊羹のように膨れたお腹がはじけて「ツルン」と生まれてきた子…

「会社に着くなり、生まれましただもんなあ」お腹いっぱいになってすやすや眠る赤ん坊の顔を見て、夫は言った。「きっとお前みたいに慌てん坊だぜ。これからこの子に振り回されるんだろうな」
「来るなり、文句ばかり言わないでよ」
 そう言いながらも、わたしは夫の喜びはよくわかったし、それはわたしも同じだった。
「あなたが着いた時、もう一人の赤ちゃんが生まれたでしょう? この子、あの子に負けたくなかったから慌てて出てきたのよ」
 しばらく前から元気な泣き声が聞こえていたが、わたし達の子どもは素知らぬ顔で眠り続けていた。愛くるしい寝顔を見つめながら、「あゆみ」という名前はすぐに決まった。焦らず、慌てず、1歩1歩歩んでいってほしいという願いを込めて。だけどわたし達に出来たのは、そう願うことだけだったのかもしれない。

つづく

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